たしかあれは春先か、夏がはじまる直前といった時期だったかなと思う。
仲間とはじめた小さな勉強会のような集まりのようなものに「猫のやりかた」という名前をつけてみた。別にどこかで発表したわけではなくて、ウェブサイトやSNSアカウントがあるわけでもなくて、私たち3人のチャットグループの名前を変えただけなんだけども。
私たちが悩んでいたことといえば、「強さを真ん中においたチームづくりからどうしたら逃れられるか」「マッチョな物事のつくりかたは避けられるか」「やわらかいリーダーシップのようなものはあるのか」ということだった。専門性は違えども、それぞれが30代で、何かしらのチームや事業のリーダー役を仰せつかることが増えてきた時期だった。
チームを引き受けたり、リーダー役を担うことは、必要だと思えばやる。というか気づけばやっていた。ただし、パワフルなだけのリーダーシップや、構造のなかに生まれがちな力関係は避けたい。そういった「やりかた」の中で傷つきが生まれること、取りこぼす大切なことがあることに目を向けたい。(誤解されそうだけどそれは決して「ソフトなリーダー像」とか「仲良しで嫌われない関係」を目指すこととは違う)。
だけども実は、そういう私たち自身が、”強い”リーダーたちの元で勉強し、育ってきた自覚がある。今いる場所は、そういう人たちに与えられてきたものでもある。だから根のところで不安がある。つくりかたややりかたを他に知らないのだ。構造的なハードさというか、強さというか、“パワー”としか呼びようのないものに対して、どこかで嫌悪と親しみの両方を抱いている。狭間の世代として責任を(勝手に)感じている。共通して持っているのは、「やりかたは変えないと」という静かな危機感だ。
とりあえず私たちは、不定期でモヤモヤしたことを話し合ったり、参考になったエピソードや資料を共有することからはじめてみたりした。演劇を観に行ったり、火を囲んだりもした。勉強会らしく「ディスカッション」や「コミュニティづくり」、「ハッシュタグ的発信」という直線的な方法をとらないのは、そういう振る舞いにもやっぱり、勝ち負けを前提としたパワーが宿っていて、ちょっと苦手だからだ。というか、疲れちゃうのでできない。
じゃあ、「猫のやりかた」とは何なのかというと実は全然よくわからない。「よくわからないからいいね」と決めたのだった。なんとなく、「猫」がやるなら、直線的ではないやりかたな気がする。廻り道はすれども意思がある感じはする。愛嬌があるし、やわらかそうだ。特別強くも弱くもない。
よくわからないから「猫のやりかた」という言葉を真ん中に置いてみる。置いてみた上で、「これこそ、猫のやりかただね」などと適当なことを言い合う。とりあえず今、手元にないものを、よくわからないまま手にしようと進んでみるためには、よくわからないんだけど忘れはしない姿で掲げておくというやりかたが良いように思う。
……とここまで書いてきて、本当に謎が多い。けど、「◎◎じゃない方法」と否定系を含む言葉を口に上げ続けるのは、身体に悪そうだったのでこれでいいんじゃないかなと今のところ。
「猫のやりかた」の集いでは、プロジェクト運営や組織運営がよく話題にのぼる。
私個人としては最近、そういう事業や人に基づくマネジメントの他にも、言葉のマネジメントみたいなものにも同じような課題を感じている。言葉のマネジメント……言い表すのが難しいけれど、「話法」のようなもの。はるか昔、地中海のあたりで髭を生やした人たちが「レトリック」と呼んだようなもの。書籍に「会話術」や「プレゼン術」という太字で印字され、売り出されるテクニックのようなもの。
説得し、理解させ、高揚させ、「そこで何かいい話がされた感じがする」という後味を残すためのなにか。
もちろん、広報PRや中間支援や編集の仕事をしてきたわけだから、わたし自身、そういう言葉のマネジメントを武器にして生きてきた自覚はある。まさにそれは「武器」であって、「道具」よりももっと、戦うことに用途が限定されていたと思う。今こうやって、わざわざ構成も構造も曖昧なだらだらとした、文体のはっきりしないテキストを書いてみているのも、そういう話法から逃げようとしているからだ(とかいっても結局、身にしみたやりかたから逃げることはできないので、それなりに「読める」ものになってしまう気がする)。
問題提起をわかりやすく、結論をわかりやすく、聞く人がうなずきやすい言葉で、ボトムアップを装って、「上」とされるものをディスって、二項対立をつくって、難しい話はまとめて、複雑な物事はポイントを押さえて、よいとされる流行のフレーズをとりいれて、論理的で迷いのないふりをして、賢いフレーズを引用して、パンチラインを散りばめて。
そういうあらゆる言葉の技術に、最近ほとほと疲れてしまった。だって中身がなさすぎる。目的が物事を実行することから“勝つ”ことにずれてしまっている感じがする。書き言葉はまだこうやって悩む余白があるからいい(つまり〈こここ〉をはじめとしたメディア編集の仕事を指しているわけではないのでそこだけはあしからず……)。特にきついのは、話し言葉のほうだと思う。
トークやプレゼンに“猫のやりかた”はあるんだろうか。
人前で話すことが増えた分、そんなことをよく考えるようになった。これまで自分が当たり前に使ってきたやりかたが、すごく手垢にまみれて意地悪な方法だったように急に思えてならない。恥ずかしい、反省する。どうしたら考えたり疑ったりする余白を残せるか、言葉を「武器」ではなく「道具」に戻せるか、ゲーム化するやりとりから降りられるか。ひとまず「わからない」「少し考えていいですか」「私に限っていえば」「ここが気になるんだけど」などと立ち止まる言葉のバリエーションを増やしてみるところからはじめてみる。“感情”や“感想”というぼんやりしたものを口に出すことも恐れずやってみる。(ちなみに「女性」としてキャリアを積んできた私にかけられた呪いの一つは、「感情的や感覚的な振る舞いをすると“だから女は”とマイナス点をつけられる」というものである。ようやく今になって本当にばかばかしいと気づいた。薄っぺらなジェンダーバイアスもそうだし、感情や感想や感覚を”下”に見ることそのものも、だ)
でもそれらもなんだか、ただの話法のような気がする。小手先な気がする。本質にたどり着けない気がする。と、思考は無限にループしていく。答えは出ていない。
先月、我が家に生後4ヶ月の猫がやってきた。急にリアル猫の話がでてきて恐縮だけど、今までさんざん「猫のやりかた、猫のやりかた」と言っておきながら、生の猫を初めて間近で見て触る日々に突入した。
とりあえず、実際の猫もまた謎めいていて、彼のなかで何かしら存在するらしい法則のようなものを追いかけて過ごしている。今のところ言えるのは、猫はお湯であるということだ。あたたかくてとんでもなく柔らかい。形がさだまらない。器に合わせて日々変わる。猫のやりかたを目指すならば、きっと“定まる”日はこないんだろうなとぼんやり思う。
以上、師走を目前にした、締まらない日記でした。猫のやりかたで、やれるといいんだけどね。
[ Illustration by Atsushi Toyama ]
Text by
“機転をきかせて起点をつくる”「きてん企画室」の代表/プランナー。文化・デザイン・ものづくり分野の広報コミュニケーション活動をサポートしています。出版社やデザインカンパニーの広報PR/編集職、文化財団の中間支援兼コミュニケーション職を経て独立。