12月にカイシャをつくることになった。実は人生で2社目の起業である。
わたしにとって初めてのカイシャは、東京都立川市の団地の一室で立ち上がった。正確には団地の一室の中の父親のデスクの上で、である。当時、わたしは小学校高学年で、発端は父が買ってきたワープロ※であった。
※ 90年代日本の零細企業では、まだパソコン(=パーソナルコンピューター)と小型プリンターはそこまで一般的ではなく、父が勤めていた小さな酒販会社にはオフィコン(オフィスコンピューター)と呼ばれるマシンが1台あるのみ。文字やイラストを打ち込み、出力するときは、ワープロというプリンターと一体型で感熱方式の印刷ができる機械を使っていたのだ。ちなみに記録媒体はフロッピーディスクである。インターネットは通じていない。
目新しい機械は、すぐに娘の興味の対象となった。そこで父が考え出した遊びが「カイシャごっこ」だった。
11歳のわたしには一冊のファイルブックが与えられ、背表紙に社名を入れるように勧められた。付けた社名は「アドぽ―」。母が隣で「広告会社は『アド』ってつくのよ」と教えてくれたから、なんとなくつけた。なぜ広告会社にしたのかはよく覚えていない。199X年、登記もしていない秘密の概念的株式会社アドぽ―の誕生であった。
父は平日の夜や週末になると、アドぽ―社長ことわたしに手書きのラフを渡した。それはだいたい、父の会社から顧客へのお知らせだったり、営業カレンダーだったりして、FAX送信用の本物の書類である。わたしはラフをもとに原稿をワープロで書き起こした。初稿を父に渡すと、すぐに赤えんぴつで修正指示が入るので、赤字がなくなるまで原稿を打ち込んでは出力した。
そうして原稿が完成し、父に印刷版原稿を納品すると、「請求書を発行してください」と言われる。もちろん請求書もワープロで作成し、わたしは父に500円〜1000円を請求した。つくったファイルは印刷版とデータの両方でアーカイブするのがシゴトのルーチンであった。
そんな風に、お小遣いを簡単にはもらえなかった我が家で、堂々と高収入を得る(1000円は大金だ!)唯一の方法がカイシャであった。(ちなみに父はわたしのつくったワープロ原稿を本当に会社でつかっていた)
その後も、フリーマーケットでアクセサリーを売って儲けようと考えた中学生時代、わたしに「原価率」を教えてくれたのもやはり父だった。おかげでわたしは原価3割でモノをつくって売り、閉店時間直前にセールをして在庫をなくすという商売の基本を覚えた。父の会社(実在する方)でクラフトビールまつりをやるときには、売り子として呼んでもらい、たくさん働いてお小遣いをもらったこともあった(中学生だったけど!)。
ということで、あまり親密ではなかったわたしたち親子が唯一、一緒に遊んだ思い出が「カイシャ」や「シゴト」ごっこ(?)だったのだ。今思えば、何の英才教育だろうと笑えてくるけれど、おかげでわたしにとって「仕事」とは、勉強よりも、部活よりも、楽しいイメージの「活動」だった。
(ちなみに、その後、父の会社は経営不振を理由に解散することになり、わたしは会社という活動体に終わりがあることも知った)
そんなわたしは大学卒業後、美大同級生の中では少数派の会社員になり、10年ほどあちこちで働いたあと個人事業主になり、独立から約2年が経つこの年末にひとり会社の代表取締役になる。今度はもちろん、ちゃんと登記をするし、資本金も入れる正真正銘の株式会社だ。
田舎の母に「アドぽ―以来ひさしぶりに会社をつくることになりました」とメールをしたら、すぐ電話がかかってきてお祝いの言葉をもらった。「頑張ったわね」と。
先日の法人化イベントでは、「明るくて軽い中田さんを見ていたら、自分も会社をつくれる気がしてきました」とカジュアルすぎる起業姿勢に感想をもらったけれど、それはきっと、子どもの頃からのイメトレが効いているだと思う。
……と、ここまでは、半分冗談で(でも実話である)。
ということで一応最後に、未来の自分に向けたメモも兼ねて、今回の起業理由を書いておきます。
中田の場合は以下のとおり。
もう本当に書いたとおりで、規模が大きい仕事は法人がないと契約ができない場合があるし、企画編集職だと一緒に仕事をしてくれるクリエイターに報酬を振り分ける役にもなる。そういう場合、会社という一次窓口や信用力のある組織があるほうがやりやすい。
そして大して儲けているわけではないけれど(本当に誤解されがちだけどそう)、個人事業主は経費を差し引いた売上がすべて収入になるので、うっかりするとお金のマネジメントでやらかしそうになる。自分のお金と仕事のためのお金をちゃんと分ける意味でも、会社という箱が必要だ(ルーズなわたしには)。
あとは仲間をつくったり、あるいは継続するという覚悟の上で似たような立場の人と差別化したり(もちろん商売であるから競合との差別化については常に考えている)、そういうときに会社があるといいなと思っている。
そして最後はやっぱり……楽しそうだから。
幻の(株)アドぽ―に代わり、(株)きてん企画室として一つの舟をこさえ、この先行き不透明な社会を漂っていくのにワクワクしている。そのほうがきっと、板切れ一枚で泳いできた今までよりは心強く、誰かのことも助ける余力ができるだろうから。
ありがたいことに今、身の回りには、小さくて楽しい会社を経営している先輩方がたくさんいる。だからやっぱり、不安よりも楽しみのほうが大きい。そして、わたしもそんな希望を持った一人として、ちゃんと舟を漕いで、海路を拓いていこうと決めた。
では改めて。
2019年12月12日、新しい会社をつくります。その名は「株式会社きてん企画室」です。
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“機転をきかせて起点をつくる”「きてん企画室」の代表/プランナー。文化・デザイン・ものづくり分野の広報コミュニケーション活動をサポートしています。出版社やデザインカンパニーの広報PR/編集職、文化財団の中間支援兼コミュニケーション職を経て独立。